体育館は、新たな船出を迎える学生達の清々しい表情で満ち溢れていた。
右を見ても、左を見ても、新生活への期待に胸を踊らせる新入生達のサワヤカな顔。
学区内の公立高校で最も偏差値が高いとされている、この白坂(シロサカ)高校に進学できたのだから、尚更のことだ。
そんな中で僕はというと、不安と戸惑いで、この場から逃げ出してしまいたかった。
昨晩から今に至るまで、ずっと生きている心地がしていない。
舞台の上では白髪の学校長が細くしわがれた声で挨拶をしている。
学校長の挨拶など、みんな早く終わらないものかと感じているものだ。
でも僕だけは『永遠に話続けてくれてればいいのに』と思っていた。
けれど無情にも時間は経過し、入学式のプログラムは滞りなく進む。
そして、僕の名前がアナウンスされる。
――『 新入生代表 夏樹浩輔(なつきこうすけ)君 』
――「はい!」
僕は精一杯の大きな声で返事し、立ち上がり、舞台へと進む ……はずだった。
ズボンのベルトがパイプ椅子の継ぎ目に引っかかっていたようで、立ち上がったと同時に椅子が転倒してしまったのだ。
椅子はガチャンと音を立て、後ろの席の女の子のくるぶしにぶつかった。
「あっ……ご、ごめんなさい!」
女の子は、大丈夫です、と言ってくれたが、体育館にはシラっとした空気が流れた気がした。
――いっそ、みんな笑ってくれれば気が楽になるのに。
僕はいつも肝心なところでヘマをする。
頭の中でのシミュレーションは完璧なのに。
米粒ほどの度胸と、洪水のような不安を抱きながら舞台に上がり、ポケットから取り出した紙を持ち上げて「新入生代表の挨拶」を始めた。
目線の高さまで上げた紙でせめて舞台下の景色を遮ろうとしたが、紙の向こう側から突き刺さってくる何百の視線を感じずにはいられない。
緊張で鳴る胸の音が、振動となって指先まで伝わる。
一番前に座っている生徒に、手が震えていることがバレていないだろうか?
静まり返った中、僕の声だけが体育館に響き渡り、時間差で反響する自分の声のせいで頭が混乱しそうになる。
先ほどの失敗でみんな冷ややかな目で見ているのではないだろうか、なんて被害妄想に襲われる。知らなかった。ただ舞台に立って喋るだけの事が、これほど怖いものだとは。
この挨拶の言葉は家で何度も音読して練習した。練習はやっておいて本当に良かった。何度も発声したおかげで、頭の中が停止しても、体が勝手に覚えてくれていた。
挨拶の最中、何度も逃げ出したくなる衝動に駆られながらも、何とか最後まで読み進めることができた。
新入生代表の挨拶を終えた僕は、一礼をして舞台を降りた。
役目を終えた僕は、席に戻り一息つく。
そこでようやく周りの景色が見えてくる。
体育館には、新入生三百二十名が、おろしたばかりの制服に袖を通して座っていた。
後ろにちらりと目をやると、保護者席が並んでいた。
多くが四十代、五十代の女性で、自分の子供の晴れ舞台を見つめている。
僕の隣の席に座っている女子生徒は、真剣な顔で舞台に目を向けていた。
清潔そうな黒髪で、きちんと膝に手を揃え背筋を伸ばして座っている。
周りを見渡しても皆おとなしく、長定規を背中に入れているかのように姿勢を正して話を聞いている。
ここにいる生徒達はなかなかに賢そうな顔つきをしており、さすがは学区内トップなだけはあるなと、感心した。
知性は顔に出るものだ。
トップクラスの偏差値の生徒は、学歴至上主義であることが多い。
ほとんどの者はそれを公言したりはしないが、表には出さなくても、内心では人の優劣を成績の順番で判断している。
ここにいる者達は、これまでの人生で勉強することに多くの時間を割いてきたのだから、当然のことである。
無論、僕も例外ではなく、学歴至上主義だ。
この中の誰よりも学業の順位にこだわりを持っていると言ってもいい。
新入生代表の挨拶をした僕は、入試を一番の点数で通過したことを意味しているのだから、好成績をとる事への執着心もこの中で一番だろう。
慣れない事をさせられたものだけど、終わってみれば、自分が目指してきたものに一歩近づけた満足感もあった。
完璧には程遠い代表挨拶だったけど、この学歴至上主義の集団(僕がそう決めつけているだけではあるが)に、僕がトップであることを見せつけてやることはできた。
高校生活のスタートはなかなかの滑り出しになりそうな気がしていた。
----と、感慨に浸っているうちに、気がつけばあっという間に入学式のプログラムはすべて消化されていた。
式が終わると、この後はクラス発表のため校舎の方に移動するようにと指示が入り、後ろの席の生徒から順番に出口の方へと進んでいく。
香水と化粧と防虫剤のニオイが混ざり合った保護者席の間を抜け、体育館の扉を出た。
体育館を出ると、中庭に咲いた満開の桜が、新入生たちを祝福していた。
僕は少し緑が混じったくらいの方が好きなのだが、今日の桜も悪くない。
花弁には早朝降った雨の雫が溜まりキラキラと陽射しが反射していた。
その奥には、老朽化した本館校舎が見える。
白坂高校の創立は古く、コンクリートの壁は薄く黒ずんでおり、校舎の西側に設置されている吹き抜けの非常階段は茶色いサビに覆われている。
新入生たちが中庭に密集してくると、本館校舎の玄関口の前で、ジャージを着た先生が大きな声で叫ぶ声が聞こえてきた。
両手を上げて、建物の中へ生徒たちを誘導している。
真新しい制服を来た新入生たちが、萎びた校舎の方へとゾロゾロと移動して行く。
雨よけのついた渡り廊下を進み、本館の正面玄関をくぐると、ステンレス製の下駄箱が並んでいる。
スリッパに履き替えてから階段をのぼり、三階建ての校舎の最上階まで行くと、そこが一年の教室になっている。
手前の一組から始まり、八組まで続いているようだ。
自分がどのクラスかは通知されていない。
教室の前にクラス名簿が張り出されているので、一組から順番に確認していくことになる。
すでに廊下は新入生達で溢れかえっていた。
名簿に群がる生徒より一歩下がった位置から、『二つの』名前を探す。
それぞれのクラスには四十名ほどの生徒の名前が記載されている。
一つずつ確認して回るのは案外時間がかかり、合格通知にクラスまで書いておけばいいのに、といつもなら思うところだ。しかし今日ばかりは、僕はこのイベントに、乙女のように胸を高鳴らせていた。
ゆっくりと時間をかけて順番に回っていき、六組の教室前まで来て、名簿に目をやる。
〈二十九番 夏樹 浩輔〉
六組の名簿の中に自分の名前があることを確認したあと、一度、床に視線を落とし小さく息を吐いた。
さて、重要なのは『もう一つの名前』だった。
全部で八クラス。
八分の一は決して高い確率ではないが、五組までには『その名前』はなかった。つまりは六、七、八組のどれかということだ。
クラス発表で、高校の合格発表以上に緊張しているのは、僕だけだろう。
それほどに重要なことだった。
僕はクッと息を止め、視線を上げ、名簿を確認しようとした時。
「夏樹君?」
背中から聞こえる、その遠慮がちな小さな声に、体をビクリとさせてしまった。
振り返ると、探していた『もう一つの名前』の主が立っていた。
「夏樹君も六組だね。同じなんだ、うれしいなあ」
名前の主は、辺りに華を散らすような笑顔を僕に向けて、そう言った。
六組の名簿の下から二番目にはこう書かれていた。
〈三十八番 山本 恭子〉
どうやら、僕の高校生活は最高のスタートを切れたようだ。