ーー高校入学の三年前。
中学の入学当初から山本恭子は有名だった。
学年で一番可愛いのは誰か、なんて話題になれば、必ず彼女の名前が候補に挙げられていた。
長く艶やかな黒髪に、澄んだ大きな瞳。
いつもシワ一つない制服から伸びる細く長い手足。雪よりも白い肌。
濃紺のセーラー服の胸には赤いリボンが映え、暗闇で光を浴びた花のように可憐で儚げな表情。
透明無垢、それでいてどこか芯の強さも感じる。
まさに大和撫子を絵に描いたような美少女。
それが周りから聞く山本恭子の印象だった。
要するに、完全無欠と言いたいわけだ。
思いつく限りのいいことを並べただけ。
購買で彼女を見たとか、体育の時に話をしたとか、いつも誰かが彼女の噂していた。
男子生徒たちは彼女に夢中だった。
恥ずかしいほどに大げさな噂話が聞こえてくるたび、僕はひとり苦笑していた。
僕は、山本恭子の事を気に留めることなどなかった。
彼女に限らず、女子生徒を気に留めることがなかったのだ。
女になんか興味はない、という硬派なことを言っている訳ではない。
気に留めたところで何も得ることは出来ないと判断していたからだ。
僕は自分の領分をわきまえて生きているつもりだ。
客観的に考えた上で、今の自分が女子生徒にアプローチをしたとしても、自分と付き合う者はいないだろうと判断していた。
僕は容姿がよろしくない。
自分でもわかっている。太い眉毛や腫れぼったい目は何とかなるとしても、顔の中央を陣取っている『豚鼻』は誤魔化しきれない。
僕は、根暗だ。
『明るく見えて実は暗い』ではなく『根っから暗い』の方の根暗。
もし僕が誰かに告白したとしたら、自分が彼女達の『告られたリスト』に名をつらねるだけだろう。
女は、告白してきた男を振ることで自分の希少価値をあげる。
『私、夏樹に告白されちゃったよ』
『ヤダー、きもーい!』
なんて会話が容易に想像でき、ファストフード店でハンバーガーのツマミにされるのだろう。
彼女たちの人生の肥料になるだけだ。
そんなの、僕はごめんだ。
付き合えないのなら、同級生の女子になんて関心を持っても意味はない。
アイドルのグラビア写真でも見ていたほうが有意義だ。
それに、これを言うと負け惜しみのように思われるが、僕には異性交友などしている時間はないのだ。
自分だけは周りの馬鹿たちと違うんだ、と。
僕は、いつもそう自分に言い聞かせて生きていた。
実際、中学に入学して始めに行われた学年テストから、ずっと総合成績一位を取り続け、誰にも譲ることはなかった。
担任教師からは、同学年から白坂高校に合格できる実力のある生徒はお前だけだろうと言われていた。
それは当然の事だった。
周りを見渡せば、誰もが先のことなど考えもせずに、その時々の流行を追う事に心血を注いでいるのだから。
このくだらない連中と同じモノサシで測られる事自体が不快だった。
順位なんかつけても意味がない、ここにいるのは『僕』か『それ以外』だけだ。
僕は、明確な目標に向けて、今やるべきことにすべての時間を費やさなければならない。
やるべき時に意識を分散させたものに、結果を手にする資格はない。
そう考えていた僕は、本当に勉強だけの日々を過ごしていた。
楽しそうに話をしているクラスメイトを横目で見ながら……
中学は、学年で三クラスしかない小さな学校だった。
僕と山本恭子は、三年間、同じクラスになったことはなく、校内で遠目に見かけたことがある程度だ。
はじめて見た時は、まあかわいいが、別に噂ほどではないな、という印象だった。
彼女は年齢よりも大人びていて、そのため周りよりも目立ってはいたが、所詮はローカル美人の範囲内。
すました表情が、何だか気取っているようで、近づき難い雰囲気にも感じた。
見た目が良くて周りからチヤホヤされてきたであろう彼女は、きっと僕の嫌いなタイプの女、僕の事を哀れな虫ケラの様に扱う女だろうと、決めつけていた。
卒業までに話をすることはないだろうし、その後には関わりを持つことはないだろう。
そう思っていた。
だが、予期せぬ形で、僕は山本恭子と関わりを持つことになる。
中三の一学期が始まってまだ日が浅い頃。
皆、新しいクラスに慣れていない状態で、誰と誰がグループになって、誰がグループでの主導権を握るか、そんな水面下での攻防があちこちで行われていた。
ほとんどの者がまだ高校受験に本腰を入れてはいなかった。
一年の時から受験を意識し、更にその先の事まで準備してきた僕には、彼らがどうしようもなく滑稽に見えていた。(――そんな態度が表に出ているから友達もできないわけだ)
僕は普段は授業が終わればすぐに帰宅するのだけど、その日はホームルームの時に解いていた数学の計算問題の続きをしていて、遅くなってしまった。
掃除も終わり、蛍光灯は消えていて、薄暗くなった教室には僕だけしか残っていなかった。
黒板のそばにある窓が少し開いていて、グラウンドから運動部の号令が聞こえていた。
計算問題が終わり、参考書を閉じて窓の外を見るともう日が沈みかけていた。
雲の切れ間が橙色に焼けはじめ、野球部の連中はダラダラと喋りながらボールの片付けしている。
部活動をしていない僕はいつも学校に残ることなく帰っていたので、教室から見る夕焼けは初めてで、不思議な感覚に包まれた。
なんだか擬似青春をしているみたいだった。
正真正銘、本物の中学生なのだけど……。
そしてその時。
教室のドアが開く音がした気がして、
振り向くと、そこにひとりの少女が立っていた。
(あっ……)
そこに立っていたのは、紛れもなく、あの山本恭子だった。
薄暗い教室で、夕日の光が廊下側のガラス窓に反射して、オレンジ色の光が彼女を包む。
開けっ放しにされた窓から入る風に吹かれて、腰まで伸びた黒髪がゆれ、うすぼこりが彼女を避けるように散り散りに舞い上がりキラキラと輝いている。
その光景に、僕は見とれてしまった。
深い霧の中を舞う蝶のような存在感。
僕の擬似青春が最高潮に達する。
蝶がこちらに近づいてくる。
教室には、僕しかいない。
声を掛けていいのだろうか?
「や、山本さん、どうしたの?」
そう言った後で、僕ははっと口をつぐんだ。
同じクラスでもなく話をしたこともないのに、僕が彼女の名前を知っているという事が、とても恥ずかしい事のように感じたのだ。
僕は彼女の事を知っているが、彼女は僕の事など知りはしないだろう。
そう思うと、別に君の事などよく知っているわけではない、と言い訳をしたい衝動に駆られる。
「夏樹君、今時間あるかな?」
そよ風に揺れた鈴のような声で、彼女が言った。
驚いた事に彼女は僕の名前を知っていた。真っ直ぐに僕の目を見て、話しかけてきた。
それは僕が想像していたよりもずっと穏やかで優しい声だった。
「どうしたの?」
「私ね、白坂高校を受験するつもりなの」
「えっ」と、僕は小さく驚きの声をあげ、
「そうなの? 僕も白坂を受けるんだ、同じだね」と続けた。
「うん、知ってるよ」
と山本恭子は答えた。
「……どうして知ってるの? 今まで誰かに話した事はないはずだけど……」
「先生に聞いたの」
「ああ、確かに先生なら知ってるね。案外簡単に個人情報を漏らすんだね、教師って」
「ごめんなさい……」
「いや、山本さんを責めてるわけじゃないよ! なんか嫌な言い方しちゃったかな。ごめん……」
妙な会話の流れになってしまい、戸惑ってしまった。
「そ、それにしても、山本さんも白坂だなんて、嬉しいなあ。てっきりこの学校から白坂に行くのは僕だけだと思ってたからさ」
「今のままだと、夏樹君だけになるよ」
「どういう事? 山本さんも受けるんじゃないの?」
「ずっと勉強してきたけど、私一人の力だと、白坂高校に合格する事は出来ないみたい」
……まあ、僕以外には難しいだろう。
「ねえ、夏樹君。お願いがあるの」
山本恭子が僕のすぐそばまで近づいて、胸先で両手の指を交互に絡ませながら、こう言った。
「私に、勉強を教えてくれませんか?」
(――えっ? どういう事?)
突然の申し出に、僕は戸惑いを隠せない。
勉強を教える?
僕が山本恭子に?
ピンとこなかった。
教えるといっても、どこで、どれだけの期間なのか。
何故僕に教えをこうのか。――どうして突然?
状況は全く把握できない。
だけど僕は、すでに彼女の持つ不思議な魅力に抗う事はできなくなっていた。
夢見心地で、細かいことはどうでも良くなっていた。
教室のノスタルジックな空気にあてられたことも後押しして(現役中学生の僕がノスタルジックも何もないはずなのだが)、何もわからないままで、僕は答えた。
「も、もちろん、僕でよければいくらでも協力するよ!」
その日から。
僕たちは毎日一緒に勉強をすることになった。
いま思い返してみても、それは不思議な日々だった。
まずは場所。
学校では集中して勉強できないし、図書館では話ができないので山本さんに勉強を教えられない。
結果、勉強場所は僕の家になった。
学校が終わると、別々に下校した後、着替えだけを済ませて山本さんが僕の家にやって来る。
メールが届いたら僕は玄関の扉を開け、そこには私服姿の山本さんが立っている。
枯れ草色のスカートに、ふわりとした黒のカーディガンを羽織っている。
頭には大きな白のキャスケットをかぶっていて、そこから伸びる美しい黒髪の上を日の光が走り、キラキラと輝く線が揺れている。
彼女は学校にいる時とは別の雰囲気をまとっていた。
流行を意識していない彼女の服装は、とても上品だけど、少女っぽさを残していた。
きっとクラスの男子は誰も知らない、僕だけが知っている山本恭子がそこに立っていた。
「いらっしゃい、山本さん」
お邪魔します、と一礼してから、山本さんは僕の後について、二階の部屋へとやって来た。
はじめて女の子を部屋に入れた。
何をすればいいのかわからず、とにかく本題に入ろうと思い、話を始める。
「えっと、まず何からやろっか」
「あ、勉強を始める前に、これ見てもらっておいてもいいかな?」
山本さんは、持ってきたバッグから、三つ折にした白い紙を出して、僕に差し出した。
学校の定期試験の結果表だ。人の成績表を見るなんて、少し胸が高鳴る。
教室で成績表の見せ合いっこをしている光景はよく見かけたが、友だちのいない僕はもちろん参加したことがない。
はじめての他人の成績表だ。
差し出された紙を受け取る時、少し手が震えた。
僕は余計な折り目がつかないように、丁寧に紙を広げた。
上から順に、名前、日付、各教科の点数、そして一番下に学年での順位が書かれている。
総合成績・百十五人中十六位。
上位十五パーセント以内には入っており、優秀な部類なのかもしれない。
しかし白坂高校を狙うのなら、かなり実力が不足している。
僕は成績表を細かくチェックし、少し考えてから、話をはじめた。
「国語や英語の点数は良いね。数学はちょっと苦手にしているのかな。文系なんだね」
「うん、それでも一年の時に比べれば、数学もかなり良くなった方なの」
「数学は伸び始めれば早いからね。コツを掴めばもっと良くなるよ」
教科ごとの簡単なアドバイスを始めた僕の言葉を、山本さんは真剣な眼差しで聞いてくれていた。
「どうかな、夏樹君。今からやって、白坂の受験に間に合うと思う?」
「うん、大丈夫だよ。高校受験なんて、範囲は絞られているからね。今の成績も悪くはないし、頑張れば十分間に合うと思うよ」
僕の言葉を聞き、山本さんの表情がぱっと明るくなった。
本当に綺麗な女の子だ。放課後のうす暗い教室での山本さんの姿も神秘的だったけど明るい部屋の下、近くで見るとはっきりと顔立ちがわかる。
なんて端正な顔立ちをしているのだろう。
これほど綺麗な女の子が同じ学校にいたなんて。
いつも周りの男子生徒が言っていた大げさな噂話は、本当だったのだ。
ーーーー
一見すると逢い引きのようなこの状況で、僕たちは、本当に真剣に、勉強だけに取り組んだ。
僕にとって、長時間、女性と二人きりでいるなんて、考えもしなかったことだ。
しかも相手は『あの』山本恭子。
休み時間になっても机で一人、本を読んでいる僕が、家に帰ると、男子がいつも噂している山本恭子と一緒にいる。
クラスの皆は、想像もしていないだろう。『根暗のガリベン君』と『学校のアイドル』が、秘密裏に会っているなんて。
溢れ出しそうな優越感は、相変わらずクラスで友達の一人もできない僕の心に色をつけた。擬似青春は現実へと変わっていく。
だが、山本恭子がそばにいるからといって、僕が『根暗』であることには変わりはない。
自分の部屋に女の子が来ている。僕のすぐ隣に座っている。
僕の頭の中には、そんな状況に対応する『マニュアル』は存在しなかった。
経験もない。
何をどうすればいいのかわからず、何も考えられない。
だから、とにかく勉強に集中した。
勉強の事なら、誰よりも饒舌になれた。
勉強していれば『何も考えなくても大丈夫』だった。
山本さんの勉強に対する気持ちは、本物だった。
中途半端な気持ちで白坂高校を目指すと言ったわけではなかった。
山本さんは、ある意味で僕に近い人間だ。
彼女は僕と同じように学歴至上主義で、誰かに認められようとしている。
一緒にいると、だんだんとその事がわかってきた。
僕たちは四月から勉強を始め、翌年の二月に行われた入試の前日までの約十ヶ月間、ほとんど毎日勉強した。
ずっと一人で勉強してきた僕にとってこの十ヶ月は、それまで過ごしてきた日常とは、全く別物のような日々だった。
自分の事だけを考えて生きてきた僕が、人との関わりを持った。
僕は山本さんを本気で白坂高校に合格させようとしていた。
夜、一人でいる時も、ずっと山本さんの事が頭から離れない。
勉強に関すること以外にも、彼女のことを知りたかった。
彼女がこれまでどう生きてきたのか。
どんな歌を聞くのか。
好きなテレビ番組は何なのか。
好きなタレントは?
底抜けに臆病な僕は、そんな些細な質問すらもほとんどする事なく、勉強だけに集中し、夢のような時間は瞬く間に過ぎていった。
――やがて冬の寒さは通り過ぎ、春の気配が訪れる。
受験は終わり、合格発表の当日。
僕はいつも通りの時間に起き、いつも通りに一人で家を出る。
自転車に乗り、僕は白坂高校に向かった。
合格発表は、白坂高校の中庭の掲示板にて、合格者の受験番号が張り出される形で行われる。
僕は白坂高校に着いて、駐輪場に自転車を置いたあと、山本さんの背中を見つけた。
「おはよう、山本さん」
振り返り、おはよう、と返す山本さんは、少し緊張した顔をしていた。
グラウンドと並行して続く、中庭までの並木道。
砂埃が舞い上がる中を、僕達は何も言葉を交わさずに歩いた。
中庭には、様々な種類の学生服を着た男女が集まっていた。
山本恭子は、人ごみの中、僕から数メートル離れた場所にいた。
掲示板に貼りだされた紙の中に、彼女の番号があった。
自分の番号を見つけた山本さんの横顔が、とても綺麗で、僕は自分の番号を探すのも忘れてずっと山本恭子の顔を見つめていた。
クラスの女子を見ている時とも、アイドルの写真を見ている時とも全く違う感情。
胸の奥が熱くなり、ギュッと狭くなる感覚。
本当はもう、ずっと前から気づいていた。
――これが、僕の初めての恋だった。