高校に入学してから一週間が過ぎていた。

「夏樹君はどこの部に入るか決めたのかい?」
 

昼休みに弁当を食べていると、隣の席の喜多川が話しかけてきた。

時代遅れなロイド眼鏡をかけた小太りで、チェシャ猫のようにいつもニタついている男だ。

彼は高校の入学式の日から何かと僕に話しかけてくる。

「僕はクラブ活動しないよ」

「ああ、そっか。やっぱり夏樹君くらいになると、今からもう大学受験だけに焦点を絞っているんだろうね」
 

確かにその通りではあったが、そもそもクラブ活動自体に興味がない。

「喜多川君はどこかに入るの?」

「うん、実はもう吹奏楽部に入部届けを出したんだ」

「吹奏楽部? 喜多川君は楽器の演奏ができるの?」

「いや、できやしないよ。でも、なんかカッコいいでしょ? 吹奏楽部って」
 

何がカッコいいのか、まるで共感できない。

それ以上に、自分から好んで、先輩・後輩なんて『縦社会』に揉まれに行こうだなんて、気が知れない。

『そんな事だから友達の1人もできなかったんじゃないの?』――と、僕の中にある本音が囁く。

「そう言えばさっき先生に聞いたんだけど、午後の授業でクラスの委員を決めるらしいね。夏樹君、学級代表に立候補しなよ。僕、夏樹君に票を入れるから」

「いやいや、無理だって。僕はそんなガラじゃないから!」

本当、勘弁して欲しい。前に立って何かをするのは、入学式で懲りごりだ。

「そうかな? みんなも夏樹君に票を入れると思うけどなあ。何たって、君は入試トップ通過なんだから」
 

確かに、高校に入学してから、この喜多川以外のクラスメイトも何かと僕に話しかけてくる。

その理由は、入学式で新入生代表の挨拶をしたからなのは、間違いないだろう。
 

まだ入学して間もないこの時期、他のクラスメイトの情報が不足している中で、僕が『一番の成績』だという事は興味の対象になったようだ。

中学では、皆が僕のことを『ガリベン君』と呼んで、陰で笑っていたのを知っている。

必死で勉強をしている人間を笑うなんて、何て腐った奴らなんだろうと、僕は周りの人間すべてを軽蔑していた。

周りにいるのは馬鹿ばかりだと思っていた。

『なんで勉強していたらダメなの?』

本当は、悔しくてしかたなかった。

入学して一週間が経って分かったことは、この高校では、少なくとも勉強をしている姿を馬鹿にするような人間はいないということだ。

偏差値の高い学校に入ったからだ。

きっとレベルの低い高校だったら、人が勉強している姿を馬鹿にする奴らがいただろう。

やはりこの学校に入ってよかった。

早くも僕の中で学歴至上主義が正しいことが、ひとつの形として証明されたのだ。

僕を取り巻く環境が変わり始めていると感じた。

(――もっと高くへ。もっともっと高くへ行きたい)

ーーーー

「僕も中学の時は結構な優等生だったけど、この学校じゃさっぱりだもんな。夏樹君はすごいよ」
 

午前中に行われた小テストの用紙を、蝶に見立てた様に二本指でヒラヒラさせながら、喜多川がボヤいている。

「点数がよろしくなかった?」

「四十三点だってさ。こんな点数とったの生まれて初めてかも。難易度高いよ、この問題。夏樹君はどうだった?」

「まあ、そこそこだったよ」――本当は満点だったが、あえて言う必要もないだろう。

「あーあ、僕も夏樹君みたいに頭が良かったらなあ」

「勉強が出来る事だけが全てじゃないよ。本当の頭の良さってのはテストの点数じゃ決められないしね」
 

僕は心にもない事を言った。我ながら、嫌な奴だ。

自分は勉強だけに凝り固まった人間ではなく視野の広い柔軟な人間ですよ、とアピールしているわけだ。

見え透いた言葉だ。

でも、白々しいことなのに、耳心地のいい言葉には人は騙される。

『本当に頭が良ければ、勉強もできるに決まっているじゃないか』 ――これが本心。

僕と喜多川の席は、教室の一番後ろに並んでいた。

僕は喜多川に気づかれないように前の席を盗み見ていた。

前から二列目に、山本恭子が座っている。

山本さんは一番前の席の斎藤美希という女子生徒と仲良くなったようだ。

山本さんは『また』フライドポテトを食べていた。

白坂高校の食堂は非常に狭く、昼休みには生徒が殺到する。鬼気迫る奪い合いである。

奥ゆかしい生徒だと、パンのひとつもろくに買えない。

そこで、少しでも生徒を分散するために、外出許可証をもらえば昼休みに校外に買い物に行ける制度となっている。

とは言うものの、近くにあるのは『コンビニ』と『ハンバーガーショップ』の二択のみだ。

山本さんは、いつもハンバーガーショップでフライドポテトを買って食べている。

最初に知った時は驚いたのだが、彼女は見た目からは想像もつかないほど偏食家だった。

僕の家で勉強している時、お菓子や軽食などを用意しても、あまり口にしなかった。

遠慮しているのか、もしくはダイエットでもしているのかと思ったが、聞けば、ほとんどの物が食べられないのだという。

フライドポテトか、決まったメーカーの砂糖菓子だけ、細かく千切って食べていた。買ってくる飲み物はいつも牛乳だった。

恋は盲目というのだろうか、僕は山本さんのそういう所までもが、とても神秘的に思えていた。

要は、彼女のする事なら何でも特別なのだ。

もし他の人間が同じことをしていたのなら、きっと僕は気持ち悪いと感じただけなのだろう。

――山本さんと斎藤さんも小テストの話で盛り上がっているようだ。

盛り上がっていると言っても、斎藤さんが一方的に喋っていて、山本さんはそれをニコニコと聞いているという様子だ。

(山本さんはテストの結果、どうだったのだろう?)

僕は山本さんが白坂高校の授業についていけているのか、気になっていた。

正直なところ、山本さんが白坂に合格できる見込みは薄いと思っていた。

山本さんは毎日必死で勉強していたけど、直前期になっても実力は停滞していた。

すでに地元のほとんどの高校に合格できる水準にはなってはいたものの、白坂高校には届かない、そう思っていた。

落ちていても僕のせいじゃないから、という言い訳ばかり考えていた。

だから山本さんが合格した時には、心の底からほっとした。

山本さんの感じた喜びを分かち合ったという意味もある。

これから山本さんと共に、同じ高校生活を送れるという嬉しさも、もちろんあった。

でも、一番の理由は、自分自身の責任が回避できたことにほっとしたのだ。

我ながら最低なジコチュー野郎だけど、ずっと友だちもおらず、『自己中心』どころか『自己単体』で生きてきたのだから、仕方ない。

これまで、人のために自発的な協力などしたことがなかったのだ。

人のための喜び方だって、下手で当然だ。

僕と山本さんは、合格発表の日に一緒にお祝いをして、それ以降は二人では会っていない。

お祝いといっても、僕が勝手に買ってきたケーキとチキンを折りたたみ式の机に並べて、二時間くらい、今までの勉強の『反省会』みたいなのをしただけだ。

つくづく、僕は勉強の事を絡めないと、ろくに女の子と話もできやしないのだと痛感する。

山本さんは買ってきたものにほとんど手を付けず、何度も僕に感謝の言葉を口にしていた。

人に感謝される喜びも、初めて知った。

しばらくして、じゃあまた明日学校で、と山本さんは僕の部屋を出ていった。

夜になってから、僕は一人で料理の残りを食べた。

クリスマスじゃあるまいし、チキンではなく、彼女の好きなフライドポテトを買っておけばよかったと、少し反省した。

高校に入ってから、あまり山本さんとは言葉を交わしていない。

入学して間もないのに男子が女子に馴れ馴れしく話しかけると、多感で噂好きの学生たちを刺激してしまう。

それは山本さんの高校生活に支障をきたすのではないかと、喋りかけるのは控えていたのだ。

まあ、同じクラスなのだから焦って話をする必要もない、と思っていたけど、近くにいるのに話をしない日々が続くとあの一緒に過ごした十ヶ月が幻だったように思えてきて、山本さんの存在を遠く感じるようになってきていた。

このクラスになってから一週間、後ろの席から教室を見ていると、男子が山本さんに話しかける光景を何度も目にした。

『どこの中学出身なの?』とか『次の移動教室は何階だっけ?』とか。

そのたびに、山本さんが僕以外の男に笑顔を向ける。山本さんを基軸にして、世界が広がる。

今まで山本さんの世界にいるのは僕だけのように錯覚していたけど、そうではなかった。

そんな当たり前のことに気づいてしまった。僕の家の、あの狭い部屋の中だけが、世界の全てではなかった。

中学の時のように別々のクラスなら知らずに済んでいたことが、同じクラスになった事でわかってしまった。

ーー昼休みが終わると、教室のドアが勢いよく開き、担任の先生が教壇に立った。

このクラスの担任は、まだ二十代半ばで熱血系の、声がバカでかい男性教諭だった。

「はい、みんな注目! これから、このクラスの委員を決めるぞ」
 

先生がそう言うと、教室が少しだけざわついた。

先生はチョークを右手に持って、勢い良くカツカツと音をたてながら黒板に各委員の種類を書きだした。

学級代表・風紀委員・保健委員・文化委員・体育委員・放送委員・文化祭実行委員。

僕が思っていたよりも多くの種類の委員が黒板に書きだされていた。

「じゃあ、まず学級代表をやりたい者、挙手!」

その瞬間、ざわついていた声がピタリと止まった。

みんなが周りを見渡して様子を伺っている。誰か手を挙げるのかな、と。

みんな、自分は立候補しないけど、他人がどうするかは興味津々なのだ。

僕は一番後ろの席だからキョロキョロせずとも教室全体の光景がよく見えた。
 

誰も手を挙げない。

まあそんなものだろう。

先生は同じ調子で、委員ごとに希望者がいないかを聞いていたが、この調子ならどの委員も希望者なんているわけないじゃないか、と思っていた。

「じゃあ最後、文化祭実行委員を希望するものはいないか? これは三名な」
 

すると、斎藤美希が後ろを振り返り、山本さんと目配せをした。そして、彼女たち二人が手を挙げた。

「お、斎藤と山本がやってくれるか。あと一名、誰か希望者はいるか?」

 その瞬間、男子生徒が四人、手を上げた。山本さんに釣られた、恥知らずな四人だ。

――もちろん、その内の一人は僕だった。